岩沼からの手紙 2014/6月

市民農園に通う子と共に遊ぶ様子
市民農園に通う子と共に遊ぶ様子

MSR+の活動が三年目を終えようとする頃に、MSR+の本部スタッフの池田さんが久々に来られた。震災直後の2011年には何度か岩沼の活動に顔を出されていたが、その後はなかなかきっかけを得られず、訪れずにいたようだ。2011年は産直朝どりの建物もなく、水田も作付ができず、またカエル等の生き物もいなかった。3年近いの空白があると、昨今の変化が良く分かると言っていた。

岩沼に訪れた日は朝どりの営業日で、朝どりとその運営を担う岡崎家の中で共に時を過ごした。互いに思うことを語るのが好きなようで、被災者と被災地を想う立場の者として打ち明け合っていた。

震災から三年が経過し、緊急支援が終わると、被災地でのボランティアという立場の関わりも変化している。一過性の関係ではなく、互いに与え合う継続的な関係がより求められるようになったように思う。他の団体が緊急支援を終えて撤退する中でキリスト者としてはどう関わるのか。そう問われる新たな段階となった。

 

6月の第2聖日に岩沼チャペルで語られたのはエステル記の御言葉だった。ユダヤ人が危機に瀕する際、モルデカイが恐れを覚える王妃エステルに、「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」と言った。エステルはそれに対して「私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください」、つまり祈って欲しいと応えている。その箇所から、「この時のためにこそ」ある立場や居場所は各々持っており、被災地に住むというのもそのひとつの形である、と「心を共に」という題で説教を聞いた。生活に困窮するような人は減ったが、将来が見えず足を止めている人は変わらずにいる。そういう人々に対して何を為すか、各々の立場では何ができるのか。

 

ひとつの答えとして、僕が求めることは「祈り」である。祈りは何よりも心の糧と、また支えとなる。ひとりで動く中でエスエルと同様に恐れや不安を覚えることは少なくない。想いが祈りとならず、呟きとして零れることもあった。被災地で励むキリスト者は誰しも少なからずそう感じていると思う。時が経ち、疲れを覚え始めている人がいるようだから。そのような方々のことも覚えて祈り支えて欲しい。

朝どりは被災地に人を呼び一つの働きに
朝どりは被災地に人を呼び一つの働きに

被災地の様子は大きく変わってきた。各地の情勢はその地に住まう者に委ねられ、別々の復興の道を進んでいる。求められる物事もそれに応じて多岐にわたり、ボランティアの選択肢は無数にある。ただ、その中のひとつとして、支え想い祈ってくださった方々に応じて欲しいことがある。被災者の感謝の想いを見聞きして欲しい。苦しむ方々を想い行動することは当然ではないのだから、その想いに感謝を示す被災者は少なくない。その両者の関係を築ける者となりたい。