岩沼からの手紙 2014-12月(1)

今年度の目標として地域に属して生きていくことを目指していた。

これまで関わってきた物事の上にこれからのひとつひとつが積み重ねられていくことを確信し、普段の事柄がこれまで以上に見えてくるように、と。その中の一つとして、自分の生活の手段というものを求めて岩沼市の職員採用試験に臨んだ。

2次試験不合格という結果が12月半ばに告知された。自分としても残念だったが、たくさんの人が自身のことのように残念だと言ってくれた。そのことは人との関係が築かれているのだと感じて嬉しかったが、自分の目指していたことが閉ざされ、先が見えなくなったような気がした。

「岩沼に残って何かをするのか?」「他の場所で役目があるのか?」「自分には何ができるのだろうか?」

答えを出すことができずにいた。


そんなふうに思い悩む中で、岩沼市の臨時職員として同じ職場で関わった人との会話で言われた一言が胸に深く刺さった。

「残るか残らないかではなくて、小寺くんが何をやりたいかでしょう?それを達成するのが難しいなら、これまで関係を築いてきた人達に甘えることを覚えないといけないんじゃないかな。」


他にも色々と話しをしたが、衝撃を受けたのはこの言葉だった。その人はクリスチャンではないから、その『甘えるべき関係』というのは人間関係を指しているのだろうが、僕が感じたのは主との関係だった。

僕は甘えたり求めたりするというのが苦手な人間で、それは主に対しても同じだった。主への祈りは、基本的にボランティアという立場からの見方を優先し、僕個人の想いや願いは二の次としていた。今回の結果は、まるでそのことを主からたしなめられたかの様に感じられた。


これまで岩沼で過ごしてきた時間を考えると、ボランティアスタッフという「立場」は無視できないが、そこに自分自身の意志が無ければ、形式としてただ存在するだけではないのか。特にボランティア活動の規模が縮小しつつある今、自分個人としてどうありたいのか、その意志の占める割合が大きくなる。どちらも大切であり、不可欠なものだ。これまで築いてきたことと同じくらいに、これから築いていきたい自分の想いを主に願っていかなければならない。


そして、今の自分の想いを語るなら、《これまでの事》が《これから》にどのように続いていくのか、それを見届けたい、それと同時に、その中の一部としてまた隣人として叶うならば属していきたい、ということになる。


MSR+として、岩沼チャペルとして、僕自身としてこれまでに重ねてきたものは数多くある。それらを踏まえて岩沼の地で何を為したいのか。それはこれまであった活動での延長線上ではあるが、僕個人の意志としての問題もある。このことが自分の課題として意味することは、これまで希薄だった個人としての意志を、ボランティア活動などを通して築いた土台の上に据え置くことである。

僕にとって隣人とはどうあるものなのか、今一度考えなければ。その答えを主と人と向き合い、求めて行く。


田面に映る月。人も何かに映らないと自分自身に気付けない
田面に映る月。人も何かに映らないと自分自身に気付けない
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