岩沼からの手紙 2014-12月(2)

年末合宿参加者の集合写真。20 名程の学生が集った。
年末合宿参加者の集合写真。20 名程の学生が集った。

キリスト者学生会(KGK)という団体を知っているだろうか。

KGKは大学生生活の中でクリスチャンとして聖書を学び、祈り、伝道し、成長していく、そのような個の活動を日本という全体へと繋ぐ役割を担っている。全国は9つの地区に分かれていて、東北地区は東北6県に新潟県を加えた7県で構成されている。

東北地区では、年末に一泊ないし二泊の合宿を開きテーマを設けた学びを行っているが、今年度のテーマはプロテスタントについて知ることだった。自分達がプロテスタントとして信仰を持っていることは知っていても、プロテスタントは他の教派と具体的にどう違うのかを詳しく知る機会はなかなか無い。良き成長の時となるように、普段できないことを学ぼうと設けたテーマである。今回、僕はその場にキッチンワーカーとして携わった。

キッチンワーカーだったので学びの機会に直接かかわることは少なかったのだが、仙台市内の東方正教の教会とカトリックの教会を訪問する時に、車の運転手としてその学びに触れることができた。

それぞれの教会の責任ある方が、教会の成り立ちや礼拝の形式など様々な話しをしてくださったのだが、訪れた教会はいずれも戦前からあり、宣教のルーツや仙台空襲からの再建といった「教会の歩み」から「現在の教会の活動」まで、一貫した歴史を教わった。


その中には同じキリスト教でありながら、それぞれの異なる部分というものを幾つも感じた。僕が特に感じたのは、「伝統的な礼拝」を行うということだった。

「伝統」とされた物事を単に形式として守るだけなら、それは礼拝と呼べるものではなくなってしまう。形式だけになってしまわないために、彼らは聖餐式や復活祭など一つ一つの意味を忘れないよう、厳しく内側にある意味を守っていた。それは日々の聖句や祈りまでに及び、信仰生活の自由度は小さくされている。自分の意志や行為を主に委ねるという意味では、己の想いを生贄として捧げることが彼等の礼拝の本質としてあるのかもしれない。


そういう礼拝の姿を見ると、プロテスタントとしての礼拝はどのように自分の想いを主に捧げるのか、それが問われているように感じた。プロテスタントの礼拝は形式的な部分は多くない。教会によっては、意味の無い伝統や古い形式を除き、現代に受け入れられるような形式へと礼拝の形を変えている所もある。

しかし、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、この言葉のとおりに礼拝を捧げることに変わりはない。言い換えるなら、どうすれば個人として、教会全体としてより強く主へ想いを向けられるか、このことが信徒のひとりひとりに、また教会ごとに問われている。


その問いに答えは無く、無数の選択肢が主より与えられている。井戸の傍らで水を汲んでいた女性がイエス・キリストに礼拝の仕方を問うたように、主に求めていきたい。


自由であるということは自由であるための責任が伴う。

主から与えられた選択の自由を悩みながも楽しみ、そして心からの礼拝を主に捧げて行きたい。