関係性と心に響く言葉   2月(1)号

2月11日の祝日とその前後の日に東北のケズィック・コンベンションが開かれた。東北は他の地区で開かれるものよりも教派の偏りが少ないと言う人がいる程に広くから人が集まり、より御言葉に向き合える場となっている。


回数を重ねるにつれ、青年がより参加しやすいようにとプログラムやワーシップに工夫を加えるようになった。集会前に行われるワーシップの奉仕は、昨年からWH教団山形南部教会とCOG酒田キリスト教会の合同で青年が中心となって捧げるようになった。

僕もその一員として奉仕の場に加わっている。そのきっかけとなったのは、山形の地で賛美の集会を、という祈りからだった。その想いからワーシップ・リーダーの学びが開かれ、共に賛美できる場も与えられた。主に対する想いは叶えられるということと、励まし合うことの恵みを教わった。


そのワーシップ・リーダーの学びの場では、ワーシップはそれ自体がすでに礼拝の一部であり、会衆ひとりひとりの心が主に向くように導く役割を担っていることを教わった。また、その歌う言葉のひとつひとつにその奉仕者が捧げる日々の礼拝の姿勢が表れることも。奉仕者の備えと役割を十分に満たすには多くの経験と犠牲が必要となる。

これらを語られた方は、それを果たせるワーシップ・リーダーが少ないことを嘆いていた。


音楽は人の心を震わせる。口から出る言葉も合わせると、主をいっそう強く感じることだろう。口から出て来るものが人を汚す、と御言葉にはある。それならば、口から出て来るものにより清められ、変えられることもあり得ると思う。歌という御言葉が伝わり易い形式、主を心に導くひとつの形として大切にしていきたい。


そのような御言葉に繋げる手段というものを、伝える立場になってから具体的に意識するようになり、聴き手の立場を考えるようになった。


キリスト教の何かもを知らない人達に対しては、彼らの理解できない用語や興味のない分野などを用いず、理解し易いように語ることや耳を傾けるような話題を選択することが求められる。

特に、これまで当然としてあった宗教観を否定するような形で押し付けてはいけない。それは既にその人の人生の一部となっている。

そして、両者の関係性も同時にある。心を開き語り合える関係であるならば、互いの言葉は心に響き合う。受け入れ難い内容でも耳を傾け、その言葉を内に留めることができる。主と共にある関係がどういったものなのか、キリスト者として日々示していく。

自分が生活する範囲で見聞きする物事、これを耳にしたのも、目にしたのも、自分が築いた関係性や自分がそこにいたから得られた立場により知り得たことに他ならない。その者の隣人となれるのも、主による問題解決を祈ることも、知り得た者しかできないことだ。


この時に、この場所に、何故自分が生きているのか、その意味を深く考えさせられる。伝えたい人に対して伝わる形式で伝えること、これを行うにはその人を愛する想いがないとできない。愛のない形式では、語る言葉もただの物音とそう違いはない。考えた分だけ、主に捧げた分だけ、その人へ想いは形となり、その人の心に伝わるのだと思う。

愛する者の救い、それを具体的にかつ継続的に祈ることができるのは、その人の隣人となる人しかいない。何もできないということはなく、直接的なことはできなくても、積み重ねた祈りがきっかけとなるのだと、僕は信じている。