後ろ姿 2月(2)号

12月に続いて、2月にもKGKの合宿の食事係を頼まれた。それは『男(ますらお)合宿』と称し、男性が男性であることの意味を学び、成長する時として計画されたものだ。十数名の男子学生が参加して、主が創造された男女が持つ役割や弱さを知る機会、また性の問題について考える機会となった。


男女の問題は、学生という誘惑の多い時にこと向き合うべき課題だと思う。女性同士ではたびたびそのような話題が挙がるようだが、男性の場合はたまに話せる機会があると時間の枠を超えてしまうほど話せる場に飢えている。

こういう話しは、男性が個人の問題として抱えてしまうこともあるのだろうけれども、聖書の教えを一貫して学ぶ機会が少ないことによることもあるのかもしれない。そのような学生にとって貴重な時を共に過ごすことができたことを嬉しく思った。


こういった学生のための手伝いを行うと、自分が学生だった頃を思い起こす。その頃は同じ大学や同じ教会で模範となる先輩の後ろ姿を見て、自分の信仰についてたびたび考えていた。悩みは多かったが、その分多くのことに気付かされ、恵みも成長も大きかった。『青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ』、この御言葉の大切さを大いに感じさせられた。


OBやという立場は、そのような問題に数年早く向き合った存在であり、アドバイザーとして言葉を残すことができるのかもしれない。卒業したからといって学生と関わる機会が失われたわけではないのだから、自分が得たものを自分の内に留めておくのではなく、誰かに伝えていけるように広く関わっていけたらと思う。それが卒業校で、現在住んでいる地域で、あるいは通う教会でできるのか、それは分からないけれども日々の生活を委ね、求めていきたい。


【クリックで拡大】13年前の教団機関紙『聖潮』の記事
【クリックで拡大】13年前の教団機関紙『聖潮』の記事

先日、自分の信仰の模範としていた方が天に行かれた。

幼いときかたとても可愛がってくださったことを覚えている。『主は与え、主は取り去る』ことを実感させられた。永久の別れではないだのが、離別を悲しむことに変わりはない。自分が生きている限り、もう決して出会うことはないのだから。御元へ行かれる前に播いたその方の祈りの種が一日でも早く芽を出すように、とただ主に願うばかりである。


誰かを送り出す、誰かが生まれるということは、ある意味で世代交代の一歩である。幼子や新たに加わる方々を導いたり育てたりするように求められ、やがて誰かを模範としていた立場から、誰かの模範にされる立場へと変わる。


僕はまだまだ誰かに見習うべき姿を示せるような者ではないけれど、せめて先に行かれたその方に対して恥じ入ることのない信仰を持てるように。

 

「主の慈しみへの賛美は今日も尽きない。」