武士道  岩沼からの手紙 9月(1)

ある日の朝、町内会の回覧板で回しているEM配達用紙を受け取りに会長の家へと、「どうぞ、上がってけさい(ください)」と声をかけられ甘えることにした。

こんな風に声を掛けていただくことがたびたびあり、都合が悪くない限りお邪魔して、その度に町内の思い出話や課題などを話題にしてお茶の時を持たせていただいている。その日も、震災の時の苦労話や、孫やその友人との関わりなど、話題は多岐に及び、会話が尽きなかった。その日は昼食も誘われるがままに同伴にあずかり、およそ6時間という短くない一時を会長の家で過ごす結果となった。お暇させていただく際には、「愚痴聞いてもらってすまないね」と言った。


このような形となったのには幾つか事情がある。ひとつは、自分達の町内会で活動してきた物事が好意的に受け止められ、親しい関係を築けたということだろう。

自分達が関わってきた会長や区長という方々は、どの方も献身的に働いている方々ばかりだった。震災の際に与えられたわずかな物資を、中にはそれを分けるに足りないからと己の懐に入れるような人がいる中で、集落の人と分け合い、文字通り同じ釜の飯を共にしていた。「かざせば透けて見えるようなたくあん」、そんな言葉が彼等の行い全てを表していた。そのような人だからこそ、ボランティアの立場も分かり、他者のために見返りを求めずに行動することを知っている。MSR+の活動の理解者として、励まし支えてくださっている。


ふたつ目に、自分達は外から来た人間であり、町内の裏のパイプを持ち得ていないことがある。

簡単に言えば、愚痴や苦労話を言えるような関係が町内に無いのだ。会長という立場ゆえに、「会長という立場でありながら…」と思われるような言動を発しないように意識すると、町内の人に心情を語るということは躊躇われてしまうようだ。


僕は、言葉を聞くこと自体苦ではなく、共に過ごせることを嬉しく思うのだが、その反面、地域の人間関係に先の見えない不透明さを感じ不安を覚える。

集落の近隣関係は、現状は希薄になっているが、昔はそのようなことはなかった。盆の時期には、線香を付けに家々を回り、その際にもてなしを受けたものだと会長は語ってくださった。その習慣は廃れてしまったが、その理由を若い世代にその様な風習が受け入れられなかったからだと考えを述べられた。

互いの家の故人を敬う風習が失われることは、その地域から人の温かさが失われたように感じた。集落内での関係が、各々の家や親戚で完結すること、それは鎖国のように閉鎖的だ。心もそのように閉じられているようだ。


何個人は冷め、内にあった想いが失われたのか。その理由を知ろうと、本を求め、「武士道」を手に取った。武士の生きざまに興味を持っていたが、これまで手に取ることはなく、初めて目を通した。その内容は、新渡戸稲造がキリスト者であったからか、書かれている物事は受け入れ易く、多くを考えさせられた。


疑問に思っていた人の温かさが薄れた理由としては、義が失われたからだと感じた。「武士道」で語られる義とは、躊躇わずに決断する心であり、世に立つために必要な人の骨のようなものであり、人の路であるとあった。人が人として当然持ち合わせている基準、人として反れてはならない領域、そのようなものが義である。

今は、その義が法に置き換えられて失われているのだろう。ある者は日本の文化を「恥」の文化と言った。義が失われる前は、義に背くことを恥とし、義が失われてからは、法に裁かれることを恥としているように思える。


例えるなら、信号無視を、それが定められた者の想いを踏みにじる行いだとし、それを踏みにじる行為を恥とすることが前者であり、その行為が法で裁かれ咎められることが後者である。故に、後者は法に照らし合わされない限り、言い換えれば、他者の目に留まることがなければ恥とはならない。


これは己を第一とし、天には何も存在しないという考え方に相違ない。「武士道」の中に、ある西郷隆盛の言葉に次のようなものがある。「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。

天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」。


これはイエスが最も重要な掟として語った「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心をつくし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:29~31)に通じるものがある。武士と呼ばれた者達は、神の名前を知らずとも、内にその教えを得ていた。しかし、新聞やニュースで語られる事柄を見聞きすると、そのような想いが今は失われていると思わされてしまう。


自然を、神を見ず人を見る生き方、それは何と悲しく、空しいことか。人は神により造られ、歩むべき義の道を示される。その道から外れて歩むなら、その行き着く先は何所であろう。