放蕩息子の回心

説教の様子。この時も涙ぐみ声を荒げた。
説教の様子。この時も涙ぐみ声を荒げた。

10月の礼拝は塩釜ともしびチャペル牧師の村島先生が説教を取り行われた。


年齢を感じさせない力強さと、幼子のような純粋さが印象に残る方だが、その説教や祈りの姿はそれらにも勝り心に残る。


主の愛が世にあり得ないものでどれほどの恵みであるのか、声を震わし荒げて語り、その愛を心に訴えてくるからだ。当人は、「年を取り涙もろくなってきた」と言っているが、村島先生の気質と合わせると味が出ているようにも感じる。年輪を重ねることによって与えられるものにも主が生きて働いておられる、と。

その日の説教題と引用聖句から少しの驚きと大きな興味を引かれた。「放蕩息子の回心」と題しているにもかかわらず、その例え話の箇所には触れないで別の箇所からそれについて語るという予想のできない内容だったためだ。それはヨブ記33章14節とエフェソ1章17,18節の御言葉で、悔い改めに至るように主が与えてくださるものを示すためだったのだと、説教が進む中でその意図を知った。

放蕩息子は親から財産を貰い、自分の望むままに過ごし、それを食いつぶした。何もかも失ってから我に返って親の元に戻るのだが、その時に彼の心の内では悔い改めが為されている。


このことを彼の立場からみると、反抗期の様なものだろう。親や世に反発を覚え、己の正しいと考える事柄を推し進めたが、彼はそれが過ちであることを知った。その時、彼は心を頑なにすることなく、自分の過ちを認めた。村島先生は、この心の動きが「主の業」であり、「霊の働き」であるとおっしゃった。


悔い改めて立ち返るということは、「自分の過ちを認め正しい道に戻る」ということだが、人の力でそれを為し遂げることはできない。弱く愚かで罪の中にある人には、それをする力が自分の中には無いからだ。主の前にへりくだり、主の業を求めなければ、人は立ち返ることはできないで、誤った道を進むことになる。ただ、あるべき場所に戻るように声をかけられていても、幼い子が親の言いつけを守らないで自由気ままに歩き回るように、その声は聞くべき者の耳には届かず空しく響いているのかもしれない。


主の示す物事を人は日常的に目にしている。しかも、幾つも目にしている。だが、人は他の多くの物事に気を取られて、それに気付かない。星の輝きが昼には太陽で隠されるように。その光を見出すことは、霊に頼むことでしか為し得ない。暗闇を知りようやくその光に気付くよりも、暗闇を知らずにその光を受け入れることがどれほど幸いであることか。


あるワーシップソングに井戸のそばの女の場面を歌ったものがある。その一部に「あの井戸のそばでずっと待っていた、ずっと待っていた、イエスさまは待っていた」とあるが、2番ではこれが彼女ではなく私たちとなり、過去形ではなく現在形となって歌われる。


主はその歌のように、また放蕩息子を待つ父親の様に、日々誰かが回心に至ることを待っておられる。ちょうど今、この時にも。


それが自分のことならば、早く主に立ち返れるようにありたい。本当の幸いは主の元にあるのだから。

“神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。”